お話できるなら
「お母さんは、植物の言葉がわかるんですよ」
それは正解ですが、でも、半分正解、というのが正しいでしょう。
母はお花屋さんに勤めていて、自宅の庭も綺麗に手入れしています。わたしときたら、剪定のしすぎで葉を無くしたり、水のやりすぎで枯らしたりしているのに、母は、小気味良い音でハサミを操り、日課として適量の水をやります。母は、植物の世話がうまいのでした。
だからわたしは、実家に帰るとき窓際に並べた鉢植えをみんな車に乗せて、連れていきます。それはさながら、定期検診のようなもの。
「毎回もってこなくてもいいでしょうに」
母は面倒そうにいうけれど、ともに生活する植物たちの健康第一、わたしが見逃す彼らの不調を母に見つけてもらうのです。でも、油断は禁物。だって母は、植物の世話は上手いけれど、植物の気持ちを理解するわけではないのです。
ある夏の終わり。
わたしは、ハナキリンという幹にトゲのある木の鉢と帰省しました。その木は、前回の帰省で長く車に揺られたせいかしんなりと葉を落としていて、毎日水をやっても肥料をやってもどうにも戻らずにいました。
母は見るなり、
「ああ、これはもうだめだね」
と言います。まあ確かに、わたしが水をやり肥料をやっていたのにこの状態なのですから、さすがの母も手の施しようがなかったのでしょう。
「そっか…」
わたしは肩を落として、促されるまま風呂に入りました。湯船に浸かっていると、ハナキリンが窓辺にあった自室の光景が思い出されます。そういえば、昨年の終わりには冬だというのに可愛らしい紅色の花を付けたのでした。ちょっぴり感傷にひたりながら風呂を出て、水を飲もうと台所へ行くと。
流し台のなか、鉢からすっかり外されて、無惨にもビニール袋の中で崩されているハナキリン。
「お母さんは、植物の言葉がわかるんですよ」
それは正解ですが、でも、半分正解、というのが正しいでしょう。