ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

眠らなくていいの。ただ、目を瞑っていなさい

眠れない夜。大人になったいまなら対処法を知っているけれど、子どものころならなす術なし。「夜は眠るもの」という母や学校の先生からの教えがあるし、「夜は怖いもの」という通念があります。寝なければ寝なければと思ううちによっぽど眠れなくなって、おしまいには半泣きです。わたしはこのまま眠れなくて、お母さんや先生に怒られるのではないか。得体の知れない怖いものが忍び寄って、わたしをすっかり平らげるのではないか。そんな想像に押しつぶされそうになったとき、えいやと身体を起こして母が起きて作業するはずの部屋へ向かうのでした。

 

父や妹を起こさないようにそうっとそうっと歩きます。裸足の足に床はヒヤリと冷たくて、暗い廊下の先でドアの隙間から漏れる明かりに安心しました。ゆっくり、扉を開きます。

 

母は、突然半泣きで起き出したわたしを見て、目を丸くしました。

どうしたの、どこか痛いの、怖い夢でもみたの。問いかけに、声をくぐもらせながら「眠れないの」と答えると、母はふうと息を吐いて、座っていなさいとソファを指すのでした。机の上には母の文字が並んだノート、難しい漢字の書類、テレビはわたしが知る由もない深夜番組を流していて、でも長いイヤホンが垂れていて音は聞こえませんでした。

「はい」

差し出されたのは、温めたミルク。熱いよ、という声かけとともにゆっくりゆっくり時間をかけて飲み干します。そのうちに涙は乾いて、ばくばくと鳴る心臓はすっかり大人しく、身体の内側にじんわりと暖かい感覚がありました。

「眠らなくていいの。ただ、目を瞑っていなさい」

母は言います。

「目を瞑って横たわっているだけで身体は休まるんだって。眠らなきゃと焦ると余計眠れなくなるでしょ。布団をかぶって、大人しくしていなさい」

大変驚き、心底安堵したのを覚えています。怒ると思っていた母は優しいし、忍び寄っていると思っていた得体の知れないものはいませんでした。カップを置いて、母に連れられ寝室へ行き、首のところまですっかり覆うように布団を掛けられて、「おやすみ」とどこかで母の声が聞こえると思ったときには、わたしの瞼はすっかり落ちているのでした。

 

眠れないとき、この幼い記憶を思い出します。

 

今週のお題「眠れないときにすること」