ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

お母さんが死んじゃったらどうしよう

映画を観て、思い出しました。映画を観ながらまったく別の映画を思い出すなんて、わたしもずいぶん映画好きだと思います。

 

「お母さんが死んじゃったらどうしよう」

そうだ、『となりのトトロ』のメイちゃんです。病気の母親を想い、それまで姉として張り巡らせていた緊張の系がふっとゆるみ、目に大粒の涙をいっぱいに浮かべて、クシャッと顔を歪ませた瞬間にぼろぼろと落とすのです。

 

わたしもかつてはメイちゃんとおなじ、母親の死を恐れる少女でした。「また明日ね」と言ってベッドにもぐりこむたびに、母親が明日の朝起きてこなかったらどうしようと考えて枕を濡らしたし、「また来ようね」と言えば母親との楽しい思い出が何度も繰り返されることを信じました。でも、いつのころからか、母親の死を受け入れて心の準備をするようになりました。していたつもりでした。

 

シングルマザーとして女手ひとつで育ててくれた母親が、突然知らされたガンによって急逝したのをきっかけに人生を狂わせるシェリル。「母が誇りに思ってくれた自分はどんなだったろう」

ひとりでひたすらに考えながら、1600キロの砂漠・森・雪山を歩きます。その姿が、ひとり旅をする自分と重なりました。そして

「お母さんが死んじゃったらどうしよう」

という、幼少期に置いてきたはずのわたしがチラチラと顔を覗かせます。

 

大丈夫なはずでした。死というものを理解しているつもりです。わたしはそれに対してなんの恐怖もありません。でもやっぱり、生まれたころから最も近くにいて、いつでも味方で、愛をそそがれて、愛を伝えられるひとはお母さんです。

「会いたい」

靴をなくしても雪に見舞われても決して弱音をはかなかったヒロインが、劇中で唯一涙を流します。わたしも一緒に、言葉にならない声をあげながら涙をぼたぼたこぼしました。

 

 

お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」

日記を書く

目にしたもの、耳にしたことを思い起こして文章にします。それは、ドライブの途中に見かけた冬の寒々しい景色と対照的な空の色だったり、友だちと2人露天風呂につかって交わした言葉だったり。日常で流れる景色や会話がわたしのなかのどこか隅のほうにひっかかってとれず、ことあるごとに思い起こされて染みついたころに、それらをすべて言葉にしてやることで一掃します。わたしにとって日記とは、このブログとはそういう役割。

 

朝起きてから夜眠るまでの過程をふりかえったり、日常の面白おかしいことをあえて探って掘り起こすことはしません。ただ日常に起こったことのなかから、わたしのわたしによるわたしだけに印象的だったことを。だから必ずしも面白い文章ではないかもしれません。美しい起承転結はなく、だらだらとして単調な流れかもしれません。でも、そういう文章を書きたいと思ってはじめたブログです。

 

「ほとほとの煮物」

祖母が言ったその言葉がずっとわたしのなかのどこか隅のほうにあって、でも妹は「変な表現だね」といって笑いました。わたしはその、日常に転がる「変な表現」をあつめてきちんとまとめておきたいと思います。

 

最近、2ヶ月ほどブログをサボっていました。日常に追いたてられて、わたしのなかのどこか隅のほうに溜まるものはあるけれど、それらが言葉になって陽の目をみることはありませんでした。

ひさしぶりにブログを書くと、なんだかヘンな気分です。思ったように言葉がでてこないし、リズムがくるってガタガタします。でも、文章にしないとわたしのなかのどこか隅のほうに溜まったものは溜まったまま溜まる一方。だからわたしは、このブログを、日記を書きます。

 

今週のお題「日記の書き方」

なんかうまくいかない日

「え、Mサイズですよね?」

コンビニで買ったカフェラテのサイズがちがいました。わたしは「カフェラテをホット、メガで」と注文したつもりだったけれど、名札に初心者マークをつけたスタッフさんは裏で一瞬メガサイズのカップを持ちあげてから、小さいサイズのカップに持ち替えました。わたしが「?」みたいな顔をしたので、スタッフさんも焦ってちょっと強い口調で言います。夕方の混む時間に、2つあるレジを1人で接客、しかも新人さん。「いえ、大丈夫です」と言ってサーバーの前で「ホットカフェラテ M」のボタンを押して待つと、なにやらカップの半分と少しくらいしか入らない。よく見るとカップはLサイズ。レシートを確認するとLサイズ。おいおい。

 

昨夜ははやく寝たはずなのに、予定時刻の4時間後に目が覚めました。目が覚めてまず「朝 起きれない なぜ」と検索。ほんとにここのところ起きれない。なぜ。

 

落ち着いていた仕事がきょうになって思い出したように舞い込んで、対応に午前中がつぶれました。午前中に駐車場の除雪が入っていたので移動した車。とりにいこうと家を出ると、午前中はにわかに晴れて気持ちいいくらいだったのに一転して吹雪。日も暮れかけて暗く、向かい風。まっしろに曇るメガネをとり、マフラーに顔を埋めながら歩いていると曲がり角を1本まちがえました。

 

後輩に頼られ、勇んで対応にあたっていたけれど、思うような進捗を得られません。後輩と、後輩にとっては面識のない知り合いの間に入って調整。「もっと"こうしたいんですけど"みたいな主体性をもってくれよ」とか「メッセージに番号ふって確認事項まとめてるのに、すっ飛ばすのやめて」とか言いたいのをこらえていると「ちょっと進捗よくないんで、他あたってます」。なんのためにここまで話を進めてきたと…。

 

なんかうまくいかない日。

19時30分。LサイズのカップにはいったMサイズのカフェラテを飲みながら、道の駅でこの文章を書いています。まだ、家に帰る気にはなれません。

2度の引っ越し

2022年、2度の引っ越しを経ていまの8畳1K日当たりサイアクルームに落ち着きました。

 

今週のお題「買ってよかった2022」

 

まさか1年のうちに2度も引っ越しをすることになろうとは、当のわたしも思っていませんでした。できることなら1つところに落ち着いて、目の前のものにじっくりと向き合いたかったけれどそうはいかず、終始バタバタとしていた2022年。でもそれこそが、わたしの2022年をあらわすにふさわしかったような気もします。

 

引っ越しは業者に頼らず、父にお願いしました。実家があるのは北海道太平洋側。わたしが暮らす北海道の左上とは車で5時間の距離です。ふだんは離れて暮らす父と1泊2泊をともにして、家のなかのものをごっそり運び出し、新居に据えました。

父は大きな家具をすっかり解体して、運びやすいように部屋の隅に寄せます。わたしが衣装ケースを2つ3つ運んでいるうちに玄関に山積みの段ボール箱をすっかり車に納めました。新居でああでもないこうでもないと配置を考えている間に、洗濯機を洗面所に設置してテレビの配線を整理します。「ここに物干し竿がほしい」というとホームセンターで材料をそろえてあっという間に取り付け、「水道の立て付けが悪い」というとたいそうな工具箱を持ってきてあっという間に直しました。夜、お世話になっている居酒屋に連れて行くとマスターと意気投合して、わたしと2人で飲んでいるときには見せない顔で笑いました。

 

これがわたしの、2022年の思い出です。2度もの引っ越しは予想外。でもふだんは離れて暮らす父と1泊2泊をともにして、ふだんは見ない顔を見れたのはよかった。滅多に思ったこともないけれど、お父さんってすごいなと思いました。父ももう50代半ば。つぎの引っ越しは、さすがにお願いできないかもしれません。部屋をすっかり片付けて、父が「それじゃあ帰るわ」と車に乗り込んだとき、ちょっぴり寂しい気がしました。

小さな暮らし

引っ越しました。

1Kの8畳洋室。日当たりサイアク。でも家賃が安いのでよしです。一緒に内見してくれた友だちも間取り図を見た母も「狭くない?」と言いましたが、収納がついているのでなんとかなる気がしました。実際、なんとかなりました。

 

わたしは昔から狭い部屋でも難なく暮らせるタイプです。物が少ないのでしょうか、広い部屋だと落ち着けないのでしょうか。昔、部屋を訪れた人からは「楽しんでいない人の部屋だ」と言われました。物が少なくて個性のない、殺風景な部屋。

 

たしかに、つい先日まで暮らしていたシェアハウスの同居人の部屋は、お洒落で雰囲気がありました。すっかりへたれた畳の上に床材を敷きつめて、毛足の長いラグを敷いて、押入れの戸は取り外して個性的な椅子を置いて机にしていました。さすがに、すっかり神様のいなくなった神棚に好きなアーティストのグッズを飾りだしたときは「それはちょっと」と止めたけれど、でも、これが「楽しんでいる人の部屋」なのでしょう。

 

わたしだってむかしは、インテリアコーディネーターになりたいと思ったくらいです。家具屋や雑貨屋はわくわくするし、引越しの予定もないのに間取り図を見るのも好き。でも、自分の部屋はなぜか狭くても殺風景でも生活感があふれても気になりません。妹と2人暮らしをしていたときには間取り図に「ウォークインクローゼット」と書かれたアコーディオンカーテンで仕切られているだけのスペースに、ベッドと衣装ケースを置いて生活していました。

 

1Kの8畳洋室。日当たりサイアク。朝起きたらすぐコタツのスイッチをつけられて、デスクに向かいながら眠気に負けたら振り向きざまにベッドに倒れこめて、料理をしながらテレビを見れる、小さな暮らし。楽しんでいないのでしょうか。わたしは、悪くない気がしています。

雪が降った日

「雪じゃん…」

北海道の左上も、冬本番です。

ちらついては溶けていた雪が、道路をまっしろに染めました。こうなるとなかなか溶けないでしょう。長く厳しい冬の始まりです。

 

日がな一日、ごうごうびゅうびゅうと風の音がして、でも雪の降りはじめは、すこし気温が高めです。油断して部屋着にジャケット1枚でゴミ出しにでても、身体の芯まで冷やされることはありません。ただ手袋もつけない肌色の部分が冷たい風にさらされて、あっという間に赤く痺れました。

 

「シーズン最初の雪道は緊張する」

誰かが、車のフロントガラス越しに撮影した坂道の写真をSNSにあげていました。たしかにわたしも速度をグッと落として、停車するかなり手前からブレーキを踏むようにします。そして交差点やら坂を下りきったところの「とまれ」看板やらを見て、そうだこの道は滑りやすいんだったと半年前までの感覚を思い出すのです。

 

「ついにこの季節が来ましたよ」

自宅に工事の業者さんが来ました。チャイムがなって玄関扉を開けると、彼の肩越しに地面と平行になって降る雪が見えます。

「お天気大変でしたね」

わたしが言うと、彼はあからさまに肩を落としました。その気持ちは、ここに暮らす誰もがおなじです。

 

道ゆく人がアウトドア用の色鮮やかなアウターを着て、チャックを首元までしっかり上げフードを目深にかぶりうつむきながら歩いています。このまちで冬のおしゃれなんてあってないようなもの。オフホワイトのコートよりレザーのブーツより、アウトドアメーカーが販売する防寒に長けたアウターが脚光を浴びるのです。

 

北海道の左上も、冬本番です。

大丈夫じゃない

「どうしてる?大丈夫?」

最近、大丈夫じゃありません。大丈夫じゃないので大丈夫じゃないなりに怠惰な生活をしています。仕事は必要最低限、食事も必要最低限、家事も身だしなみも必要最低限。完全にすべてを手放せないのは、手放せないようになっているからです。

 

「ほら、あいちゃんも飲みなよ」

必要最低限のバイト先で、お酒を勧められます。マスターまで勧めてくれるのでお言葉に甘えて着席。居酒屋のカウンターでは大丈夫も大丈夫じゃないも関係ありません。ただちょっと早めに切りあげて、缶ビールを1本だけ買ってちびちび飲みながら1人きりで帰ります。

 

「そう思えるうちは大丈夫!」

わたしの鬱々とした様子を案じた先輩からのメッセージ。大丈夫じゃないっていってるんだから大丈夫じゃないんです。でもメッセージそのものが嬉しくてちょっと強がって見せると、前向きな言葉。だから、大丈夫じゃないんだって。今度ごはんに行く約束をさせていただきました。

 

「夜遅かったの?大丈夫?」

友だちのメッセージ。先日2人で出かけたときに「大丈夫じゃないかもしれない」とわたしがうちあけて以来、たびたびメッセージをくれます。彼女だって忙しいだろうにと「そっちこそ大丈夫?」ときけば、ありがとう、ありがとうと応酬。お互いにもたれかかっているようです。どちらかがその役割を放棄したら、どうなってしまうのでしょう。

 

「どうしてる?大丈夫?」

極めつけは、母からのメッセージ。昨夜21:00頃にきたメッセージに既読をつけずにいたら、翌日12:00頃に電話がかかってきました。さすがに半日足らずでの安否確認は過保護すぎ…けれどこうして、いろいろな人に気にかけてもらっていることを実感します。

 

しかし、どうにも、それらが「大丈夫」の理由にはなりきれません。わたしはいま、大丈夫じゃないのです。ただ完全にすべてを手放せないのは、手放せないように気にかけてくれる人たちがいるからです。