ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

可哀想だね

「長女って可哀想だね」

西日の眩しい車のなかで、妹に言われました。夕方に差し掛かった国道の車通りはそれなりで、ひさしぶりの地元の空気を感じながら、ゆるくアクセルを踏みました。少しだけ開けた窓から熱くもなく冷たくもない風が入ります。でも助手席に座る彼女が暑い暑いというので窓を閉め、エアコンをつけました。低い機械音とともに、しっかりと冷やされた空気が流れます。

 

わたしと彼女は2人姉妹。わたしの方が3年早く産まれていますが、友人のような関係です。その日も2人でドライブをして、わたしがこの半年ほどの暮らしをふりかえって思ったことをなんの気なしに話しました。すると彼女は窓の外を眺めながらゆっくり舌の上で転がすように聞いて、それから案外あっさり言ったのです。

 

そうか、わたしは可哀想なのかと思いました。

そしてすぐに、なんでそんなことを言われなきゃならないんだという気持ちになりました。

 

小説かなにかで「可哀想って言われるのが嫌」というのを読みました。「可哀想」とは同情的な言葉だ。上から目線で、アンタに言われる筋合いはないという気持ちになる、と。当時わたしには深い感慨もなく、自意識の高い面倒な人だな、くらいに思っていました。けれど実際に言われてみれば、なるほど。

 

いたずらな同情は、相手の気持ちを踏みにじります。思考も葛藤もそれに要した時間も全部、簡単な感想で片付けてしまいます。もちろん相手には、そんな気毛頭もないでしょう。でも、ないからこそ理解できない、思いもよらない考えに触れて「可哀想」なんて言うのは、ずいぶんと無責任だし無意識に相手を見下している証拠です。

 

「可哀想って言葉、なんかイヤ」

わたしが言うと、妹はふうん、だか、へえ、だか言って「だってさあ、」と「長女が可哀想な理由」を続けました。わたしが求めているのは発言の理由ではなく、可哀想という言葉を使った意図なんだけれど。

 

可哀想って言われるのが嫌。可哀想な長女より。