なんで夜にその話するの?
夜はいけません。
星がでていようが、月が大きかろうが、おもしろおかしい深夜番組をやっていようが、1人、膝を抱えて過ごす夜はいけません。
夜というやつは、わたしがいる部屋だけぽっかりと世界から切りとって、この地球上にたった1人ぽっちの気分にさせます。目の前のことなんて永遠に終わらないような、終わったところで誰も見向きもしないような、空虚な気持ちを連れてきます。1人で立ち向かう不安ははかりしれず、このまま、わたしの内側に巣食う気持ちに飲み込まれてしいそうになります。
そういう夜が、時たま、突然にやってきます。
わたしばかりではなく、きっと、誰しもに訪れているでしょう。
でも、絶望してはいけません。
きちんと顔を洗って、歯を磨いて、あたたかい寝巻に着替えて、ふわふわの毛布の間にすべりこむのです。頭を空っぽにして、朝まで目をつむっているのです。このとき、いろんなことが頭をよぎるけれど、決して動じてはなりません。動じたところで、好転する未来など見えないのですから、じっとじっくり、夜が過ぎるのを待つのです。
そうしていると、朝がきます。
窓の外は明るく、陽射しはやわらかく、身体はすくっと動くし、頭はさえています。わたしたちはそうして、強大な”夜”という敵に打ち勝ちながら、生きていかねばならないのです。
だから昨夜、スマホの通知欄に、1度スワイプしたくらいでは読みきれないメッセージを見つけたとき、わたしはそっと電源を落としました。
メッセージの送信者は、きっと、そんな夜の淵にいるのです。
夜はいけません。
おしまい
正月ボケから、やっと抜け出しました。
正月休みをいただいた約1週間。父と2人、テレビの前に陣取って朝から晩までだらだらとお酒を飲んでいたら、人らしい生活をすっかり忘れてしまいました。
朝の布団の誘惑に勝てず、いつもの通勤鞄はなんだか重たく、デスクワークはすぐに肩こりして、同僚の笑い声はどこか遠く、やっとの思いで帰宅してもストーブの前にうずくまり1時間。きちんと化粧を落として眠るだけで100点です。そんな毎日を、かれこれ半月。これではいけない、いけないと思うたびに身体は重たくなり、ズルズルと引きずるようにして暮らした半月は、けっして短くありませんでした。
終わりは急にやってきました。
それはたぶん、真っ青なお天気の日に、1日中家にとじこもって、ストレッチをして、ゆっくりお風呂につかったせい。おひさまの光にあふれた冬の部屋はじんわり暖かく、身体の内側まであたためました。手足を動かすとうっすら汗がにじんで、ぐ、とのばした肩甲骨が、心地良い刺激をビリビリさせます。いただきものの柚子の入浴剤をいれたぬるめの湯に浸かりながら、家を建てるなら浴室には明かりとりの窓をつけるぞと、決めました。
翌日も、よく晴れていました。
ただし風は強くて、玄関扉を開けたわたしの頬を文句なしにぶちます。ゆっくり開いた目には、朝日をうける雪がきらきらして、さわやかな青をしていました。
その青を見たとき、「あっ、終わったんだ」と思いました。わたしの、長い長い正月ボケ。
あいかわらず朝は布団が恋しいし、肩はこるし、帰宅後1時間はストーブの前から動けません。
でも、日の明かりや雪の色を美しいと思い、こうして文章を書き、友だちとワハハと笑っています。だから、わたしの1年はようやく動き出したのです。はじまりはじまり。
尊敬すべき
「そういうこと、言うもんじゃないよ」
母が語気を強めました。声を荒げたわけではないけれど、ぴしゃんと一言。わたしはそれ以上、言いませんでした。叱られました。こうして母に叱られるのはいつぶりでしょう。少なくとも、社会人になってからはなかったように思います。
妹が怪我で入院しています。
ずいぶん長いこと仕事を休んでいるし、入院するより以前から「辞めたい」が口癖だった妹。「これを機に仕事辞めたら」冗談めかして言うと、「わたしもそう思う」と笑った妹。その妹の話を、母と2人、していました。
「妹、仕事辞めたらいいのに」
わたしが言うと母は一言。
「辞めたいと思ったら、誰が何と言おうと辞めるんだから、当人以外が気安くそう言うもんじゃない」
そういえば、母はわたしがボロボロになって実家へ逃げだしてきたときも「なに食べたい?」とか「ゆっくり寝なさい」とは言っても、「やめて帰ってきなさい」とは言いませんでした。半分、その言葉を期待していたわたしにとって、なんだか肩透かしを食らった気分でした。帰り際、実家の玄関扉を押し開くその瞬間まで、その言葉を待っていたのですから。
それでも、あの時そう言われなくて良かったと、いま、思います。
もしあの時、「やめなさい」と母が言ったら、わたしはどうしていたでしょう。やめていたかもしれないし、やめていなかったかもしれません。でも、少なくともその決断は「母に後押しされた」結果であって、わたし自身が考えあぐねてだした決断とは言えないでしょう。
人は、決断しなければならないときに、しかるべき決断をします。
当人以外が関与すべきではありません。
わたしはずっと、母が決断に迫るひと声をかけてくれなかったあの時が、不思議でなりませんでした。時を経て、妹の話題のさなか、ぴしゃりと言われたその一言で、不思議がとけました。やっぱり母は、尊敬すべき母なのでした。
蒼白
道が滑りそう。
免許更新に行く予定でした。けして都会ではない北海道の左上、週末に免許更新対応をしている運転免許試験場は、車で2時間弱かかります。ついでにあちこち、用足しをしようと考えました。しかし、前日に雨が降り、加えて終日氷点下10度前後という天気予報。ツルツル注意。免許を更新しに行って、スリップ事故なんて面白くありません。更新期限までまだ日があるので、持ち越すことにしました。
さて、急に予定がなくなった休み。
よく晴れているようだけれど、二重サッシのすりガラス越しには、外の様子がうかがえません。こういうとき、人は気持ちがいいと言って散歩やドライブにでかけるのでしょうが、その日わたしは、ただぼんやりと居間のまんなかに座って、太陽の光を浴びていました。
陽光は1人暮らしの部屋に2つある窓の両方からめいっぱい差し込んで、じんわり室温を上げます。あざやかな、黄色。気まぐれに背筋を伸ばして肩甲骨を寄せてみると心地よく、寝転がって足を動かしたり、腹筋したり。じんわりと汗をかいてきたところで、風呂に湯を入れました。
我が家で湯船につかるのは半年ぶり。1人暮らしで追い炊き機能もない風呂は、もっぱらシャワー室でした。熱めの湯を風呂釜の半分くらいまで入れて、ぬるくなるまでじっくりつかります。上がるころには、部屋がオレンジ色でした。
カシッ
お酒のタブをひきます。録画した深夜のバラエティー番組を陽のあるうちから見ていると、なんだか贅沢な気持ちです。だらだらと缶を傾けているうちに、陽はじっくりと傾いて、群青色に沈んでいきました。
週明け。
月曜日の朝、窓の外で忙しく行き交う車の音で目が覚めました。玄関ドアを開けたとたん、容赦なく吹きつける風に涙が滲みます。すりガラス越しだった窓の外は、黄色でもオレンジ色でも群青色でもなくて、ツルツル路面にうっすら積もった雪がすこし、蒼白く見えました。
作品
年末年始、さまざまな映画がテレビ放送されていました。わたしはこの時期、ふだん見ないテレビの放送予定表を隅から隅までチェックします。
放送予定表には、映画のタイトルはもちろん、放映年や出演者、大まかなあらすじとともに、テレビ局が番組表の制作に際してつけたであろう、宣伝コピーが並んでいます。「往年の名作!」とか「不朽のラブストーリー!」とか、そう言われると見たくなっちゃう、キャッチコピー。
でも今年の年末年始映画は、ちょっと違いました。
「こんな時代だからこそ」
「マスクをつけなければ生きられない世界で」
「それでも、生きていく」
時世でしょう。ウイルス禍に一変した暮らしを揶揄するようなコピーが目立ちます。視聴者の興味をひいて、番組を見てもらうためのキャッチコピーですから、共感性の高い文句が好まれるのはわかります。けれどそれを、さもその映画作品のテーマのように語って気をひくのは、なんだか面白くありません。
キャッチコピーをつけられた作品は、「マスクをつけなければ生きられない世界」が主題ではなく、「マスクをつけなければ生きられない世界にしてしまった人間の愚かさ」がテーマの映画だし、「それでも、生きていく」映画ではなく「そうあることを選んで、生きていく」映画であったのに、煽り文句ひとつで、なんだかまったく、別の作品のようです。
世の中にでている物事はすべてそう。そうして人の目に触れる機会が増えていると言ってしまえばぐうの音も出ませんが、作り手の気持ちがこめられた「作品」は、なるべく、正しい意図で然るべき人に届いてほしいと思います。
とはいえ、わたしが思う作品の「意図」も想像にすぎず、監督の「意図」はもしかしたらまったく別のところにあるかもしれないわけで、だからこそ、「作品」は面白いのだけれど。
わたしはサイコー
自己肯定感ぶち上げソングを聞きたい。
世の中にはさまざまな音楽があります。聞き手を鼓舞し支えんとする「応援ソング」は大きなジャンルでしょう。洋楽、邦楽に問わず、バラードからダンスミュージックまであるなかでも、わたしが好きな応援ソングは「自己肯定感ぶち上げソング」。
たとえば、Taylor Swift「Shake It Off」がぴったりです。
Taylor Swift - Shake It Off (Official Video) [4K Remastered]
And the haters gonna hate, hate, hate, hate, hate
Baby, I'm just gonna shake, shake, shake, shake, shake
I shake it off, I shake it off
Heart-breakers gonna break, break, break, break, break
And the fakers gonna fake, fake, fake, fake, fake
Baby, I just gonna shake, shake, shake, shake, shake
I shake it off, I shake it off
嫌いという人はずっと嫌いよ
ベイビー、私はただ踊りつづけるそんなのどうでも良い事なの
傷つける人は傷つけつづけるし
嘘つきはずっと嘘つき
ベイビー、私はただ踊りつづける
そんなのどうでも良い事!
諦めずに立ち上がれ!とか、頑張りは報われる!とか、さらなる努力を求めるのでなく、「いまのわたしサイコー!未来はぜったいサイコー!」という、自己肯定感を補強する応援ソング。頑張っているのはわかりきっているのだから、頑張っている自分をほめて、明るい未来を信じましょう。いつまでもくよくよしないで。わたしはサイコー。未来は、サイコー。そういう曲を聞いていると、気持ちがふわりと緩やかに浮上してきます。
邦楽より洋楽の、殊に女性ボーカルに多い曲調に思います。わたしが知るのは、さきにご紹介したTaylor Swift「Shake It Off」とLizzo「Good As Hell」。もっと自己肯定感ぶち上げハッピーソングを聞きたい…ご存知の方、教えてください。
Good as hell
わたしは、英語がダメ。
中学ですでに苦手意識があり、高校にあがると担当教諭がそれはもう恐ろしく、がむしゃらに勉強した結果、本当にダメになってしまいました。苦手とかできないとかでなく、もう本当にダメ。
けれど、英語でつづられる音楽や映画には、心惹かれます。わたしが25年生きた世界と異なる世界が、理解しえない言葉によって表現される洋画や洋楽は魅力的。美しい映像を字幕を追うことなく堪能したいと思うし、和訳の解釈に左右されず、わたしの言葉で理解したいと思います。けれどどうして、わたしは英語がダメなのでした。
ただし、英語がダメでも、わかることがあります。
音楽のサブスクリプションサービスで、洋楽を流し聞いていた時。
言葉の意味はわからないけれど、メロディにつられたり、リズムに乗って身体を動かしているうちに、その曲に出会いました。
シンプルなメロディに、軽快なリズム、そして、女性ボーカルの力強い歌声。ハスキーなその声はパワフルでありながら、優しさが感じられました。
まるで、1日のおわりに大好きな先輩とビアホールにいるような。
くよくよとネガティブになるわたしの背中を2、3度さすって、大きな口でにっかり笑うような。
ビアホールには行ったことないし、ビールをあおって笑う豪快な女性の先輩も知り合いにはいないけれど。その曲を聞いた時、たしかにわたしは、人生の先輩にドンと大きくあたたかく、背中を押されたのでした。
Come now, come dry your eyes ほら、もう涙は拭いて
If you need advice, let me simplify アドバイスが欲しいなら、簡潔に教えてあげる
「曲名 和訳」
現代は便利。検索すれば、すぐに答えに行きつきます。
けれど、答えなんて必要なくて、英語がダメでも伝わるものがあるのです。
ベイビー、調子はどう?
Feeling good as hell!
Lizzo, Ariana Grande - Good As Hell (Lyrics)