あのときかもしれない
きみはいつおとなになったんだろう。
成人式がありました。「大人の仲間入りを果たすイベント」と称されるけれど、早生まれの人は19歳だし、今年成人式にのぞんだ彼らは2年前から選挙権があって、田舎だと中学生から親元を離れて暮らす人もいるし…みんな、いつ大人になったんだろう。
長田弘さんの詩は、恋人か親友か我が子か、すごく大切な「きみ」に「あのときかもしれない」と宛てられています。
もう誰にも、遠くへ行ってはいけないよ、なんて言われなくなって、引き返せない遠くまで行ってしまった「きみ」。
なぜと元気にかんがえるかわりに、そうなっているんだという退屈なこたえでどんな疑問もあっさり打ち消してしまうようになった「きみ」。
こころが痛い、としかいえない痛みを自分に知って、それに随分と慣れっこになってしまった「きみ」。
そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
なんだか、孤独と諦観をにじませて随分悲しく感じられました。大人になる瞬間って、そんなに悲しい「あのとき」なのかな。ならわたしの「あのとき」は、ひとり暮らしを始めてすぐにつまづいて母へ電話して、でも母も忙しさのさなかですぐに電話を置かれてしまった「あのとき」。これからは、この孤独と諦観をただ一人で抱きしめて生きていかなければならないのだと感じました。18歳でした。
でも、そのあともやっぱり母に電話をしたし、新しいものに触れてわくわくしたり、友だちと泣いたり笑ったり、恋人にどきどきそわそわしたり、一人で遠くへ行ったりしました。そう考えると「あのとき」は、あったような気もするしなかったような気もします。もしかしたら、これからあるのかもしれないし。
そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
せめて、すごく大切な誰かと笑いあってこの一文を言える「あのとき」を迎えたいものです。