ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

息を殺して

地元新聞の新年紙企画で、様々な若手団体の代表の方と対談した内容が、記事校正であがってきました。ふだんはインタビューして「記事にする側」なので、自分が話した内容を「記事にされる側」というのは、なんだか不思議な気持ちです。こそばゆいような、歯がゆいような、すわりの悪い感じ。受けとって、意味もなく何日か目の端に置いて、余裕のある休日にA4用紙5枚分をめくりました。

 

わたしだけど、わたしではない何者かが、つらつらと語っています。

わたしの表現だし、わたしの思考なんだけれど、どこか違う。

それは、語尾だったり、句読点の入れ方だったり、接続詞の使い方だったり。小さなところから「わたしではないわたし」が滲みだして、A4用紙5枚をすっかり読み終えるころには「わたしではないわたし」が一人格としてできあがっていました。申し訳なく思いながらも目についた端から赤ペンを入れていくと、すぐに真っ赤になる用紙。けれど、ふだん「記事にする側」をしているからこそ、「わたしではないわたし」を許すことができませんでした。

 

文章とは人が生むものなので、書き手の個性が滲むのは当たり前。淡く感じとれる個性ごと楽しむべきでしょう。けれど、インタビュー記事において、書き手はなるべく息を殺して言葉を編まなければなりません。個性が感じられてはいけません。

読者にとって、インタビューされた人物を想像する手掛かりがその文章上にしかないなら、書き手の個性もまた、人物を形成する要素になってしまいます。純粋に人物を伝えることが目的であるインタビュー記事において、書き手の個性で人物の姿を歪めてしまうなんて、あってはならないことです。

生まれてしまった「わたしではないわたし」に赤ペンを引きながら、自分の仕事を振り返りました。息を殺して。