ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

浪費する夜

26歳の誕生日。

特別な予定のなかったわたしを、友だちが祝ってくれました。当日、誰が、何人くるのかも知らされずに始まったパーティー。わたしの部屋を会場に、各々のタイミングでチャイムを鳴らし訪れる友だちに笑いました。

会場がわたしの部屋ということは、家主のわたしが「閉店!」と言うまでパーティーです。人が増えたり減ったりしながら時間はながれ、時計の針がてっぺんをまわったころ、テレビゲーム機を抱えた友だちがチャイムを鳴らした時にはすでに、わたしの正常な判断能力がすっかり欠落していました。ゲームをして、お酒を飲んで、だらだら話をして。「明日も仕事なの誰!?」という質問を3度はして、だんだん青白くなる窓の外が、惜しく思われました。アルコールとは不思議なもので、1時間も10分そこらに感じさせます。いえ、もしかしたら、夜中にも関わらずわははと大口を開けて笑うその笑い声こそ、時を短く感じさせたのかもしれません。とにかく、わたしたちは飲んで、笑って、話をしました。

 

こんな飲み方をしたのは、大学以来でしょう。時間ばかりがあった大学時代は、ただ楽しさを求めて夜を浪費しました。何も得られずとも、その時を笑って過ごせさえすれば幸せでした。幸せと引き換えに消耗した体力は、講義時間の居眠りで回復すれば良かった。けれどいまは立派な社会人で、体力を削って、明日を生きるお金を稼ぎ、回復のチャンスは、夜しっかり眠ることにしかありません。大学の大層な講義室で腕に顔を埋めて、教授の声を子守唄に眠るあの頃とは違うのです。

 

翌日。

いつもどおりやってくる、平日の朝。雑魚寝した炬燵から這い出して、「仕事が休みの人は寝てていいけど、8時半には閉店するからね」と声をかけます。自然と下がる瞼をこじ開けながら、それでもやっぱり、こういう夜があっても良いと思うのでした。社会人のわたしたちだって、夜を浪費していいのです。