霧のなか
「それじゃあ、また」
21時。遅すぎず、早すぎない時間。宵の口ではあるけれど、きょうはもう、おしまい。
不自然でなく手を触れていたでしょうか。
きちんと笑顔だったでしょうか。
確かめたくても、歩きだしてしまったが最後、うしろを振り返ることはできません。
「あ、雨」
雫が頰を濡らしたように感じて顔をあげると、街灯がぼんやり霞んでいました。霧が出ているのです。ざーん、ざざーんと遠くで波が弾ける音がしていて、まるで雨のなかでした。少し大振りにジェスチャーしたのは、「え、雨?」なんて返してほしかったから。まだ、話していたかったから。
玄関から50メートルほど歩いて車に乗ってようやく振り返ると、やっぱりそこに、いてほしい人はいませんでした。
雨なんて降っていませんでした、
霧が出ているだけでした。
でも、夜の街を白く煙らせるほどの霧は、素知らぬ顔でわたしを飲み込みます。まっすぐ前だけを見て、車を走らせました。
光が拡散して、クリスマスのオーナメントのようにまんまるな街灯の白いあかり。向こうには、信号の青や赤や黄がぼんやりと浮かんでいます。まるで知らない街でした。
でも、知らない街にもわたしの家はありました。木造2階建てのアパート。鮮やかなスカイブルーの外壁は、霞んだ視界にもはっきりわかりました。
ちょっぴり狭い駐車場に車を停めます。きょうは、切り返しなし1発OK。鞄を肩にひっかけて外へ出ると、海から離れたせいでしょうか、霧は少しやんでいて、呼吸がしやすくなっていました。
21時。遅すぎず、早すぎない時間。
深呼吸。