ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

もう戻らない、もう戻れない

もう戻らないのだと思うと、胸の奥をぎゅうと強く掴まれる心地がします。

 

夏休み、ひとりきりで実家の自室に寝転がる昼下がり。父と母は仕事、妹はどこでなにをしているのでしょう、物音ひとつしません。ただ、窓の外からは夏の陽光が少し傾きながら入り込んで、ちりんちりんと風鈴が揺れています。どこかで芝刈り機が動く高い音がして、刈りとられた草の青くさいにおいがします。頭の隅には宿題の存在がチラついているけれど、いまはまだ、もう少し。パリッとしたシーツに顔をうめて、まぶたを下ろします。そうして過ごす小学時代の夏の日は怠惰で平凡で、それでも、すべてのものから守られているという安心感がありました。

 

わたしは、大きくなりました。

さまざまなことがありました。悔しいこともあったし悲しいこともあった。この瞬間が永遠であればいいと思うこともあったし、わたしは特別な女の子なんだと実感することもありました。

それは、あの夏の日からぬけだして、自分の足で歩いているからです。危険の伴うことです。怠惰や平凡は許されません。けれど、あの夏の日のわたしには知るよしもなかったドキドキとワクワクが、この世界に溢れていることを知ってしまいました。わたしは、それに触れたいと思います。

だから、あの夏の日にはもう戻れません。

 

もう戻らない、いえ、もう戻れないのだと思うと、胸の奥をぎゅうと強く掴まれる心地がします。それは、懐かしさと物悲しさ、そして決意めいたものをおびています。あの日にはもう、戻れない。ならば、進むしかない。

 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」