すべてを受容された夜から帰る朝
思えば、ずっと“音”とともにありました。
音楽にハマりだしたのは小学生の終わりごろ。中古CDショップでジャケ買いしたのは、Mr.Childrenとポルノグラフィティでした。我ながら、このころのチョイスが音楽の道筋をつくったと思います。中学でお気に入りのアーティストができて、ライブに行きました。高校の行き帰りはずっとイヤホンをしていました。大学に入って洋楽を聞くようになり、社会人になってそれまでわからなかったクラシックやHIP-HOPの良さに触れました。最近では、ラジオやYouTubeチャンネルの音もよく聞きます。それらは、わたしの日常を彩り、心をほぐし、安寧を与えるのです。もちろん車に乗れば、カーオーディオはフル稼働。道を歩くにもイヤホンを欠かしません。
ただ、ごくたまに、音のいらない瞬間があります。
それは、すべてを受容された夜から帰る、朝の道だったり。
ぬけるような青空のもと、まだ緑の稲穂が風に揺れるのを眺めるときだったり。
おいしい料理をじっくりと味わう時間だったり。
誰かが何かを言っているけれど、誰が何を言っているのかはわからない街中だったり。
そういうときは、お気に入りの音よりも、その“時”に耳を傾けようと思います。いえ、耳を傾けようとも意識していません。耳が音を必要としないのです。日常の彩りも、心がほぐれる感覚も、安寧すらもいらない、必要としない。ただそこにあって、時間をたゆたう心地が優先され、それ以上は何もいらない。
ごくたまに、そういう瞬間があります。