ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

デートは奢り割り勘論争

「デートは奢り?割り勘?」

男女関係について、よく取り沙汰されます。ほかにもデートにサイゼリヤはアリかナシかとか、食事に誘っておいてノープランは許せるかとか、男と女にはあれやこれやがあるようです。

わたしは、それらがSNSやメディアでとりあげられるたび中立の立場をとってきました。自分の常識と相手の普通はちがうし、自分がもてはやされるほど特別な人間と思っていないので、まあ仮に(奢ってくれるかな)と期待しながらそうでなかったとしても、諦めがつきます。つくと思っていました。その夜は、ワケが違ったのでした。

 

年上の方とごはんをしました。このごはん会は何度も行われていて、もうかれこれ3、4年目です。定期的に会ったり会わなかったりしています。年上だし収入もその人のほうが上で、ごはんに行き始めたころはその人が全額払ってくれました。いわゆる奢りでした。「だします」と慌ててお財布をだしても「いいよいいよ」と制されます。そんな感じで3、4年目でした。

 

先日、ごはん会をしました。わたしはその人よりはやく仕事が終わったので、なんだかんだと買い込んで向かいました。袋から机の上に広げて、なんだかんだと話をして「ああそういえば」とその人がお財布をとりだします。チャラチャラと小銭がぶつかる音がして、テーブルにはお札が1枚と小銭が少し。割り勘というやつでした。

 

わたしは悲しかったのです。

割り勘の行為そのものではありません。これまで奢ってくれていたのに、急に割り勘になったこと。奢ってくれるその金額こそ、その人がわたしにつけた価値のような気がしていました。価値があるから奢ってくれる。 つまりわたしはもう、その人にとって奢る価値のある人間ではなくなったということです。価値のある人間でありたかった。その人にとって、特別でありたかった。

 

きょうからわたしは「デートは奢り?割り勘?」論争に例外があると唱えながら、生きていきます。異論を認めます。人間と人間のお話ですから、異論まみれに、ぐちゃぐちゃになって生きていきましょう。生きていくのです。