ほとほとの煮物

お口にあうかどうか

カクゴ

昨年の冬、ピアスをあけました。25年生きてきて、はじめての孔。それは、わたしがわたしを大切にして、絶対に幸せにしてやるのだというカクゴの孔でした。

 

その当時、どうもわたしはわたしを大切にできなくて、目の前の“楽”ばかり追っていました。よくよく考えてみれば辛いことに変わりなく、そこから脱するべきことはわかるのだけれど、一時的な“楽”がタイミングよく差し出されて、それがあまりに勝手よく暖かかったので、ついつい手を伸ばしてはこれではいけないと首を大きくふって項垂れました。そうすると、また“楽”がひょっこり顔をのぞかせるのです。

 

わたしだってわたしを不幸せにしたいわけではありませんから、よく考えて、よく言い聞かせて、そのループから抜け出そうとします。けれど、現実はどうも辛くわたしに当たるのでした。当てられたキズを、一時的に適当に癒しては、キズ跡が化膿してじくじくと痛むのでした。

 

だから、ピアスを開けました。物理的な痛みをともなってキラキラ光るピアスが、わたしの精神的な弱さを律してくれるのではないかと思いました。わたしの耳朶はたいそう厚くて、孔が安定したのは次の冬が訪れたころ。それまで孔はじくじくと、じゅうぶんに痛みました。

 

次の冬が来るまで、何度も“楽”に手を伸ばしそうになりましたが、じくじく痛む孔をぐっと触ってみてなぜこの痛みがあるのかということを思いだし、どうにか1年やってきたのです。

 

そしてきょう、もうひとつピアスをあけました。それもまた、わたしがわたしを大切にして、絶対に幸せにしてやるための、カクゴの孔です。